静岡県の神社
白羽神社
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地図
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東名相良牧之原ICから18㎞20分/吉田ICから20km・30分/掛川ICから25km・40分/御前崎灯台まで5km・10分 |
御祭神 | 1.天津日高日子穂々手見命(あまつひこひこほほでみのみこと) 2.豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと) 3.玉依毘賣命(たまよりひめのみこと) |
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御神徳 | 1.山幸彦として知られる神様 (海上安全・大漁満足) 2.山幸彦の妻で、海神の娘 3.豊玉毘賣命の妹 |
御由緒 | 仁明天皇承和四年(838)二月元宮である岬の駒形神社より遷る。延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧縣社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。 旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年11月鎮座。 仁明天皇承和元年3月神様のお諭しにより宮処を廻り、青龍・白虎・朱雀・玄武の魔除の四神相諮り相応の処を定め、承和四年2月現地に遷座した。 武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高二十九貫二百文の土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。) 永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全て焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀三年10月14日御神体を還幸した。 また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正二年7月9日付を以って神領を寄進せられた。 武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長八年9月19日付、朱印高一〇五石と改める寄進があり当地方最高位となった。 太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以って服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る) また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている。 遠江しるはの磯と贄の浦と あいてしあらば 言もかよはむ 万葉集遠江歌 丈部川相 当社前方が海辺で、万葉歌人の詠まれたものを見ても、古来より名高い所であった。 明治6年3月 郷社 明治44年8月11日 神饌幣帛料供進社に指定 昭和5年2月11日 県社に昇格 昭和21年11月30日 宗教法人令による神社を設立 昭和29年4月26日 宗教法人法による神社を設立登記した |
御祭典 |
例祭 4月10日(4月10日に近い休日)午前9時年間一番大切なお祭り。国の繁栄を祈る祭。神輿の市内白羽地区巡行が行われる。大祓 6月・12月晦日正月(7月)から6月(12月)までの罪穢が祓われる。茅の輪くぐりが行われる。秋祭り 10月連休初日の土曜日 午前10時年間一番にぎやかなお祭り。秋の収穫(豊かな日々)を感謝する祭。市内白羽地区6基の山車が昼夜、おはやしとともにねり回される。七五三、成育祈願祭 11月15日(11月中)これまでの成長に感謝し、今後の健やかな日々が送られるよう神様にお願いする祭。節分祭 2月3日午後3時節分の神事に続き、歳男歳女による豆まきが行われます。また、各種景品が当たる福餅も蒔かれ、境内は賑わいます。
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